FuzzyGray

曖昧の中に真実を

信用できる人信用できない人【後回しの人生】

言葉を適当に扱う人が多すぎる。

日本は識字率が高い。誰でも言葉を使うことができる故に、言葉に責任を持たない人が多い。

具体的には“言ったのにやらない人”のこと。

今回は信用できない人、言い訳ばかりの人についてまとめる。

可能性に生きる心地よさ

どいつもこいつも言い訳ばかり。

今したいことを無意識的に後回ししている人が多すぎる。

後回しにすることで可能性を残しておく。「〜かもしれない」に生きる。

芸術は爆発だ” で有名な岡本太郎も「“いずれ”なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていない」と言っている。

この間、銀座に行ってきた。

十年来の友人とたまたま歌舞伎座を通った時「俺いずれこの歌舞伎座に行くこと決めてるんだよね」と言っていて「え、今行けば」と言いそうになった。

値段は5,000円から20,000万円程度。当日券もある。のに“いずれ”と、後回しにしている意味がわからない。なんならその場ですぐに行けたくらい。

なんで今行かないんだろう。いずれっていつ来るんだろう。

と純粋に、本気で疑問に思う。人生は有限だ。

みんながみんな反面教師

思えば、そんな人たちを反面教師にして私は形成されてきた。

・仕事めんどくさいと言いながら仕事に行っている人がダサすぎて仕事を辞め、

・資格を取ると豪語して結局惰性的になって断念してるのがダサすぎて私は何も言わずにその資格をとり、

・次銀座に行く際は歌舞伎座に行こうとまで思ってる。

本当にやりたいことに対しては多少の出費、多少の壁、多少の犠牲は払えるはず。

今を生きていれば“いずれ”なんて言葉は出てこない。本気度が違う。

今の連続の先にある“いずれ”は、自分の中で完結させて“今”を生きるべきだと、明確にそう思う。

そういう人は、その言葉によって自分の信用を少しずつ蝕んでいることに気づいていない。

一度ケチが付くとダメなのだ。回復はなかなか難しい。

自戒を込めてここに記しておく。

大きくなればなるほど自然体。

あともう一つ思うこと。

目標や次の目的地が定まった時に高らかに宣言する人ほど何かしらの理由をつけて断念し、サラッという人ほどサラッと達成する。

星野源の言葉で好きな言葉がある。

武道館ライブについて「大きい声を出せば出すほど、お客さんは遠く感じてしまう」という発言。こう思っているから、規模が大きくなればなるほど自然体で挑むそう。

まさにそれだと思う。

高らかに宣言するということは自分にとって大きな壁ですと宣言しているような感覚で、それは聞いている相手関係なく“自分”がそう認識してしまう気がする。

だから私は人に言うとしても至極当たり前のように言うし、至極当たり前に淡々とこなすことを意識している。

なにより、その方がかっこいい。

弱い犬ほどよく吠える

そして宣言を聞くときに思うこと。

「○○することに決めた」という宣言はあまり信じられず、「○○し始めてる」という報告をする人は信用できる。

悩む → 決める→実行する → 達成or断念

この2個目のやじるしの感覚はなるべく短いほうがいい。

“今やりたい”という炎は簡単に消える。

仕事に行って家事をしてYouTubeを見てInstagramをみてTikTokを垂れ流してたら、すぐに忘れる。「まぁいっか」と惰性に流れる。

人に宣言する段階で“決めた段階”なのか、“既に実行している段階”なのか。

実行に移っていたらそのまま走り続けるだけだが、決めた段階だとそこから重い腰を持ち上げなければならないし、その宣言した相手の反応によっては諦めてしまったり逆に宣言したことで満足してしまったりする。

つまるところ、弱い犬ほどよく吠えるということ。

言葉ではなく背中で語れる人を目指し、言葉ではなく人の行動を信じるようにしたい。