何を言うかより誰が言うか。
同じ言葉でも誰が言うかによって捉え方が変わる。
心理学には”メラビアンの法則”というものがある。
コミュニケーションにおいて、視覚情報(誰が言うか)が55%、聴覚情報(どうやって言うか)が38%、言語情報(何を言うか)が7%の影響を持つというもの。
人生にはフェーズというものがあり、今の自分に合った歩み方をすればいい。
そんな話をしたい。
人生にはフェーズがある
人生にはフェーズがある。
フェーズ(phase)は段階、局面という意味の言葉。
本来の使い方ではないだろうけれど、“身の丈”とも言い換えられる。
つまり、今の自分に合った行動を選択しろということ。
今の自分が位置する段階を認識して、そのステップを踏む必要がある。
「大人の余裕」と「若気の至り」
一見、対義語のように見えるふたつの言葉について考える。
大人の余裕
落ち着き、渋さ、どっしり感。
大人の余裕はかっこいい。
若干23歳の私からすると、30代の余裕がある大人はとてつもなく格好いい。
大人の余裕に若さの勢いで挑むが玉砕。大人の余裕に丸め込まれて惨敗。
その度に「こんな風になりたい」と強く思う。
ただ忘れてはいけないのは、大人の余裕を手に入れるには若気の至りを経験する必要があるということ。
例えば30代。同じ年齢でも余裕のある30代と余裕のない30代がいる。
その差は“若い頃の経験”に他ならない。
若い頃に無茶苦茶やってた人は“大人”と呼ばれる年齢になった時に“余裕”が生まれる。
若い頃にしか味わえない数々の経験を経て、余裕のある格好いい大人になる。
格好良いとは言えない必死な若い頃を送ってきたからこそ出る大人の味がある。
若い頃には若さのフェーズ。大人には大人のフェーズ。
35歳が余裕でいると格好いいけれど、15歳が余裕をもっていると「余裕ぶってる」ように映る。
若気の至り
若い頃は世界の広さなんて顧みず、一生懸命生きればいい。
一生懸命、若気の至りをする。一生懸命、井の中の蛙でいる。
そう思うに至った実体験について。
この間、人生初の回らない寿司を経験した。
36歳の先輩にハーフマラソン完走のお祝いと言うことで連れて行ってもらった。
ハーフマラソン挑戦記事は下記。
今まで食べていた回ってくる100円寿司とは違い、びっくりするほどの美味。
ネタは分厚く新鮮で、シャリは口に自然に寄り添う。酢の効き具合とワサビのアクセントが絶妙。
リアクションの大きい私はこの感動を伝えようと、全身を使って味わっていることを表現したいものの、席はカウンター。
横を見ると50~60代の常連顔したおじ様おば様。
美味しさを表現しきれないもどかしさと、大人しく在るという現実感。
なんとも言えない不思議な感覚だった。
一方、先輩は喜んで食べる私を見て微笑んでいて、こういったお店での食べ方やマナーなどを教えてくれた。
こんな人になりたいな、自分はまだまだ子供だな。と内省する中で一つの結論に至る。
「いや、まだ23歳で子供。美味しそうに食べるのが仕事だ。」
回らない寿司初体験で落ち着いて余裕でいろという方が無茶。
若者は美味しいものを美味しがる方が可愛げがあるし、その先輩も20代の頃はそうだったに違いない。
そう、人生にはフェーズがある。
今はまだ落ち着く段階にいない。そう自己納得した。
人生にはフェーズがある。それを認識して、抗わない。
今の私のフェーズは一生懸命味わうこと、飛び込むこと。
胸を張って、若者故の小物感を出していきたい。
去るもの追いかけ、来る者拒む。
「去るもの追わず、来る者拒まず」
確かに名言だけど、気に入らない。
その理由が、今回の記事の趣旨にピッタリきた。
「去るもの追わず、来る者拒まず」にいるのは受け身だから。
持つもの持って、成すこと成した人はこのスタンスでいいと思う。
けれど、今の私には合わない。なりふり構っていられない。
追いたいものは追うし、いらない人は拒みたい。自分で選びたい。
そんな美学もあっていいんじゃないだろうか。
ただ、これは肯定でも否定でもなく、今の私のフェーズではない。という意見。
去るもの追いかけ、来る者拒んだ先に余裕が出てきて、受け身でいられるフェーズも来ると思う。
今の私には合わない。その段階にいない。
シンプル。ただそれだけ。